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2022年1月17日 (月)

サン・マルコ修道院のギルランダイオとフラ・アンジェリコの《最後の晩餐》

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サン・マルコ修道院(Museo San Marco)に行った(フィレンツェ)

トスカナ州は2022年1月10日から、ホワイト・ゾーンからイエロー・ゾーンになって観光客が一段と減ったように思う。Museo San Marco も入場のためには Green Pass Rafforzato (スーパー・グリーンパス)が必要だ。朝、8時台に行くと、ベアト・アンジェリコの大作が並ぶ大きな部屋で観ているのはぼくともう一人の女性だけで、ゆったりと観られる。

二階に行く階段脇の土産物などを売っている部屋の壁にあるのが、このギルランダイオの《最後の晩餐》である。ギルランダイオは、フィレンツェにいると美術史上の大巨匠、大スターに埋もれてしまいがちだが、今回久しぶりに観て、より親しみを感じたし、興味をかき立てられるところがいくつもあった。

テーブルの手前にいるのがユダであるというのが定説だが、その脇に猫がいるのはどういう意味があるのか? ギルランダイオのこの作品で今回はっとしたのは、イエスや弟子たちの影がくっきりとうしろの壁に描かれていることだ。通常ルネサンスの絵画だと足下とか、服の襞であるとか、建物の立体性をあらわすために濃淡をつけることはあるが、人の影というものがこれほど明快に描かれているのは珍しいと思う。ギルランダイオは1400年代の後半で、これが1600年前後のカラヴァッジョやジェンティレスキになると、あたかも映画で強烈な照明でライティングしたような光と影の強いコントラストが表現されるようになる。ギルランダイオはそういった強烈なライティングという感じではない。また、猫には影がないようにも見えるのだが、それはこの猫が悪魔の化身だからだろうか?だからユダのそばにいる?

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こちらはフラ・アンジェリコの《最後の晩餐》でテーブルが小さくて、弟子が全員は座れず、4人ほどは画面右側で跪いている。二階の修道僧の房に描かれたものなので、壁面とか構図の制約もあるのかもしれないが、13人も一度に座れるテーブルがなかったという発想も興味深いし、修道僧の食欲を刺激してはいけないと思ったのか、こちらはホスティアのようなものをイエスが弟子に与えているが、料理やワインは見当たらないのも面白い。

 ロマン主義が勃興するまでは、原則オペラ作曲家が実際に歌う歌手を想定して書いたように、画家も《最後の晩餐》はこうあるべきということだけではなく、それがどういう場所に描かれるか(食堂なのか、修道僧の房なのか)を考えにいれて描いたということは、ありそうだ。もちろん、場合によっては注文主の意向、絵の場所と見る人の位置関係なども考慮に入れただろう。

 そういう意味で美術館というのは便利ではあるが、そういった物理的コンテクストを切り離されて観ているという点は頭の片隅で認識しておく必要があるだろう。最近は宗教画で祭壇にこういう風に置かれていたなどという図を説明文のなかに組み込んでいる場合もあるが、まだまだ稀である。

 

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イタリアにおける男女平等についての些細な考察

イタリアにおける男女平等について、まったく個人的に街角やテレビを見て感じた事を記してみたい。

今回、2021年8月からイタリアに滞在して6ヶ月目に入ったのだが、漠然と感じたことで、男女平等の方向へ進んでいるのかなあ、と思った点がいくつかあるので記す。

1.ファッション

 かつて1995−96年にイタリアに滞在した時には、イタリアでは男の方がバリッとしたものを着ていて、女性は洋服地や仕立てはあまりよくないが本人の美しさでカバー?という感じがあった。そのころは女性もワンピース、あるいはスカートを含むツーピースを着ている人もそこそこいた。今は、女性もほとんどがパンツルック。スカートではなく、ズボン(パンタローネ)をはいている。スカートをほぼ必ずはいているのはロマ(いわゆるジプシー)の女性である。昔は年配の女性はまだスカートの人もいたと記憶するが今はほとんど見かけない。

 男もパッセッジャータ(散歩)をする時に、かつては定年後の人もジャケットにネクタイという感じで、男性の方がより服装にこだわっているようだったが、今はカジュアル化が進んでいて、寒くなってからは、ほとんどみなダウンコートである。男女差がほとんどない。そういう意味で、男女水平かが進んだと言えるのかもしれない。

 さすがにフィレンツェの歌劇場では、ワンピースをビシッときめたマダムを複数みかけてある種の感慨を持ったけれど。

 歌劇場では、男もジャケット率は高くなるが、セーターの人も結構いてそれぞれである。

 これは近年、イタリア以外の歌劇場でもそうで、ドイツであれ、オーストリアであれ、歌劇場での服装のカジュアル化は確実に進んでいる。

 パリでテロがあったりしたときは服装よりも荷物検査が熱心になり、今はグリーンパス(ワクチン接種証明書)のチェックが大切なこと、優先順位の高い問題となっているのだ。

2.鉄道員

 これも徐々になのだが、女性の鉄道員が増えている。車掌であれ、駅舎で働く人であれ。おそらくどこの職場でもこの今世紀の20年ほどの間に女性比率が高くなったのだと思う。家事労働をどう評価するかは複雑な問題で、一筋縄ではいかないが今は便宜的に横に置いておくと、外勤女性が増えると、自分のもらった給料で服を買う自己決定が相対的に容易になるのではないかと推測する。無論、財布の中身と値札を比べて思案することには変わりがないのだが。

3.テレビ番組

 前に紹介したソリティ・イニョーティというRAI1の人気番組がある。司会者はサンレモの司会も3年続けてしているアマデウス。この人は大変口跡がよく発音が聞き取りやすい。フレーズの区切り方も、プロだなあと感心する。この番組は8人の一般人(たまに1人芸能人がはいっていることもあるが)が出てきて、2人の人が相談しながら彼ら・彼女らの職業を当てるというゲームである。前に当ブログで紹介した時には、回答者=8人の職業を推測する側が芸能人だったが、普段は一般人2人のようで賞金をもらえる。8人にそれぞれあてたらもらえる金額があって、それを積み上げていって、最後に8人のうちの誰かの親戚(兄弟姉妹か親子)が出てきてそれが誰の親戚かを当てたら賞金はもらえるし、はずれればパーという仕組みだ。一般人のカップルが回答者になると、夫婦か事実婚カップルが多い。そこで二人が相談して決めるのだが、案外女性が決定権を持っている場合が多く、アマデウスが、彼女がイエスと言えば、最初ノーと言っていてもイエスなんだね、などと茶々をいれている。これは判断がむずかしいのだが、果たして、昔から、表面的には男をたてていても家に帰って二人で相談すると女性の方が実質的決定権を持っていることが多かったのか、それとも近年(たとえばここ20年くらい)決定権の軸が女性よりにシフトしたのか。この番組の場合、二人で相談するのだが、それが公開されているわけで、人前と言えば人前だし、相談内容は二人のこととも言えるので、内か外かが微妙である。ソリティ・イニョーティが注目に値すると思うのは、これが服装の選択や、料理を選ぶということではなく、ゲームとは言え、その決定により何十万、何百万がかかっているチョイスだからだ。お遊びとは言え、これだけのお金がかかっているわけで選ぶ方(職業は無限にあるなかからあてるわけではなく、8つの選択肢から選ぶ仕組み)は真剣である。そこでカップルの決定権の在り方がどうかというのは普段の二人の関係を反映しているのではないだろうか。8問(8人の職業当て)のうち1問や2問は男がこれだよと断言して決めることはあるが、それは女性がそうする場合も同じくらいあるし、女性がどう思うかを男性に尋ねておいて、その答えを否定すると男性はそれに同意するということもよくある。

 もちろん男女平等と言う場合にこういったカップルの関係だけでなく、企業や社会における制度、社会参加の仕組みの問題が重要であることは認識しているが、テレビを見たり、街を歩いていて気がついたこととして記してみました。経済でも国家の統計や日銀短観に対してタクシーの運転手に聞く街角景気があるわけで、こちらもタクシーの運転手一人ではなく百人単位になればかなり意味のある情報となるのだと思うが、当ブログの場合は一運転手の感想に相当するものとして受け取っていただければ幸いです。一人で見聞きできることに大きな限界があることは承知しつつ、ということです。

 

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2022年1月 3日 (月)

三回目のワクチン接種

三回目のワクチン接種をした(フィレンツェ、ネルソン・マンデラ・フォーラム)。

2022年1月2日という時点で、3回目のワクチン接種(モデルナ)をしたのでその経緯を簡単に記しておきたい。

日本にいる親がまだ通知も届いていないのに、僕が3回目の接種が出来たのは、イタリア政府の方針と実行力による。

イタリアに8月にやってきたころは、ワクチン・パスポートの有効期限は8ヶ月か9ヶ月という報道がなされていた。それはイタリアだけでなく、他のヨーロッパ諸国でも同様であった。イタリアの場合、実際にコロナに罹患した人も多いので、二回ワクチンあるいはコロナに罹患して回復し、さらにワクチン一回という人もいる。しかし滞在しているうちに3回目の接種の話が各国で出てきて(イスラエルが最も早かったと思う)、そこへオミクロン株の出現で、一気に三回目接種を早くやろうという姿勢にイタリア政府が変わった。

そのあたりからワクチンパスポートの有効期限の短縮が言われ始めた。

その頃フィレンツェ大関係者に尋ねると、二回目接種から半年経過したら三回目が打てるようだった。

しかしその後、ヨーロッパ各国でオミクロンの感染があっという間に広がり、オペラ関係で言うと、イタリア以外の諸国では劇場が閉鎖されてしまった。EU離脱したイギリスは、感染が広がるなかでも開き続けているようだが。

そうこうするうちに二回目接種から5ヶ月経過したら三回目が接種でき、ワクチンパスポートの有効期限が6ヶ月と報道されるようになった。僕自身7月半ばに二回目を打っているので、有効期限が6ヶ月だと1月半ばに有効期限が切れてしまう(あるいは1月いっぱいは大丈夫なのかもしれないのだが詳細は不明)。

イタリア人の場合は Codice sanitaria という保険番号を持っているのだが、僕はもっておらず、Codice fiscale (税務番号ーーこれはビジネスをやるやらないとは全く関係なく発行してもらえる)はもっており、トスカナ州の窓口に電話をして申し込みをすることができた。

そこから数日してスマホに電話がかかってきて、何日はどうかと尋ねられこちらの都合にあわせて予約をいれた。

するとスマホに予約書と問診票が送られてくる。それをプリント・アウトして問診票にイエス・ノー(Si, No)を書き込んだものを接種会場に持って行く。問診票は、今までに予防接種でアレルギー反応が出たことがあるか、など、日本のインフルエンザの問診票などと似た内容である。

会場のネルソン・マンデラ・フォーラムはサッカー場のそばにある室内競技上で屋根付き。入り口で予約書を見せ、会場に入るとまず accettazione (受付)で書類のチェック。次は、注射。肩を出して左腕上腕にブスっと打たれてすぐ終わる。その後は registrazione (登録)。ノートパソコンに係の人が、僕の場合、2回は日本でファイザーを打ちそれぞれの日付、3回目はモデルナで今日の日付を打ち込んでくれる。人によってスマホに証明書(デジタル)が送付されるようだが、僕の場合は、サイトに行ってダウンロードするようになっていた。

会場には、受付も注射も登録も7から8列ぐらいが並行して進んでおり、一列あたりは5,6人が並んでいる感じで、待ち時間は10分から15分程度だったと思う。登録後に15分待機して、異常なければ、帰ってよしということになる。

日本での二回は町の開業医で打ってもらったので、会場自体の大きさに驚いたが、日本でも自衛隊が設営したところはもっと大きかったのかもしれない。開業医でしてもらった時と異なっていたのは登録の手続きを、係の人と口答でやりとりしながら完成させる点ぐらいだろう。会場の人はみなテキパキとしフレンドリーであった。

イタリア人のステレオタイプなイメージを覆すような事態が、現在は進行中である。イタリアはEU諸国の中で、オミクロン株の感染をもっとも抑ええ込んでいる。それと関連しているが、2回目までの接種率も他国より高い。そして3回目の接種の進行もEU諸国の中で最も進んでいるのである。

 

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ヴィヴァルディ《ファルナーチェ》その2

ヴィヴァルディのオペラ《ファルナーチェ》の続き。

この日の歌手は、ラファエレ・ペをのぞき、大変有名な歌手、国際的に活躍している歌手を集めているわけではない。バイロイト・バロック・オペラ・フェスティヴァルなどと対照的なのは、イタリア人歌手で固めていることだ。

そこには一長一短がある。

そもそも曲の作りからして、たとえばヘンデルのオペラとヴィヴァルディのオペラでは、言葉へのこだわり、あるいは言葉と音楽の有機的連関性がヴィヴァルディの方がずっと強い。今回の上演では、舞台の上方にイタリア語字幕が表示されていた。ダ・カーポ・アリアのABA'では、A,B のところでは歌詞が表示されA'のところでは、Aと歌詞は同じなので表示されない。舞台を観たり、字幕を読んだりしながら観ていたのだが、ヴィヴァルディの場合、歌詞と音楽の連関性は実に説得力があり、魅力的なものだった。作曲した時点で、ヘンデルの場合、ロンドンの聴衆の多くがあまりイタリア語を解していないため、有機的連関性を追求する動機が乏しく、それどころか彼の場合、イタリアで上演されたオペラのリブレットのレチタティーヴォを勝手に大幅に削除した版を誰かが作り(リブレッティスタが明記されていないこともままある)、それに曲をつけているのだ。

ヴィヴァルディの場合、ヴェネツィアであれ、ローマであれ、フェッラーラであれ、聴衆はイタリア人であるから歌詞を理解することが前提となっており、有機的連関性を聴衆も求めるし、作曲家もそれに応えようとするのは当然のことと言えよう。

しかしそういう意味ではポルポラやヴィンチの場合も、イタリア人(当時はイタリア半島の諸国に住む人々であったわけだが)が聴衆であることを前提としている。その上で、ポルポラやヴィンチとヴィヴァルディでは、音楽と言葉の関係性に微妙な違いがあるように思うが、その分析は別の機会を期することにしよう。一つ言えるのは、アリア自体の劇的な性格、ドラマティチタがヴィヴァルディの方が刺激的に強い。おそらくその一つの理由は彼の弦楽器セクションの表情付けのダイナミズムにあると思う。

ヴィヴァルディはイタリアの大オペラ作曲家の中で、例外的に、数多くの優れた器楽曲を作っている例外的な作曲家であることと、それは無関係だはないだろう。

こうした音楽と言葉の連関が濃密なオペラを上演する時に、イタリア人キャストで固めているのは、言葉のニュアンスを大切にする上では強みとなる。とはいえ声自体の魅力、雄弁さという点で一流のイタリア人歌手をしのぐ他国の超一流歌手もいるわけで、公演の魅力はそれぞれにあるわけだ。フェッラーラという人口13万人程度の街で、これだけ文化的意義も高く、上演の質も高い上演がなされるところに、イタリアのオペラ文化の底力の一端を見た。

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2021年12月31日 (金)

ヴィヴァルディ《ファルナーチェ》(1)

ヴィヴァルディ作曲のオペラ《ファルナーチェ》を観た(フェッラーラ、テアトロ・コムナーレ)。

このオペラは1727年にヴェネツィアのサンタンジェロ劇場で初演され、その後各地で再演され、1738年にフェッラーラで上演されるはずだったのだが、当時のフェッラーラの枢機卿が介入して上演が出来なくなったといういわくつきの1738年版のフェッラーラでの初演である。

ただ、1738年版は第一幕、第二幕には他にはないほどヴィヴァルディの詳細な書き込みがあるのだが、第三幕が消失している。そこで通常は1727年版の第3幕に接ぎ木をして上演するのだが、今回は指揮者と演出家が合意して1738年版を再構成したというのだが。。。その手続きの詳細は不明である。

《ファルナーチェ》のストーリはやや複雑だが、ファルナケス2世(モーツァルトのオペラのポント王ミトリダーテの息子)という歴史上の人物に自由に恋愛話を付加したものである。

 ファルナーチェが、ローマと戦い敗れたところから劇は始まる。妻のタミーリに、ローマの捕虜とならずに息子を殺し、自殺せよと言い残す。タミーリはその場では承諾するものの、息子を殺すことをためらい、ある墓所に息子を隠す。

 一方、ベレニーチェというカッパドキアの女王がいて、彼女はタミーリの母親であるのだが、ファルナーチェを敵視している。ファルナーチェの父に自分の夫を殺されたからだ。父親憎けりゃ息子も憎し、さらにその息子も憎しで、ベレニーチェはタミーリの子供(自分にとって孫)も、ファルナーチェの子供だからという理由で死を望んでいる。復讐心の塊である。

 一方、ポンペオなどローマの人物は、もっとバランスの取れた人物として描かれている。

 ドラマ上、鍵となる女性はセリンダで、彼女はファルナーチェの妹なのだが、美貌の持ち主で、ローマの将軍アクィリオからもベレニーチェの配下の将軍ジラーデからも憧れの対象となるのだが、セリンダはそれをうまく利用して、兄を助けようとする。セリンダ、アクィリオ、ジラーデの三角関係は、この劇の恋愛的な見せ場を構成している。

 それに対し、ファルナーチェやベレニーチェは政治権力、闘争が第一の人物で、ヴィヴァルディはこれらの人物を見事に音楽的に書き分けている。声種の違いもあるのだが、それだけではなく、恋愛的状況と政治的な立場によってアリアの音楽的色合いがまったく異なるのである。アクィリオやポンペオは雄々しい、ヒロイックなメロディ、リズムを与えられている。ジラーデの恋心を歌うアリアなどは全く対象的にまさに揺れる心を表現するもので、キャラクターの描き分けはヘンデルに勝るとも劣らぬものだ。あえて違いを言えば、ヘンデルの方が木管楽器をより頻繁に使うように思う。ヴィヴァルディは弦楽器だけでリズムや弦の刻み方を変えることによって曲想を巧みに変化させてしまうので、曲想を変える時に必ずしも楽器を変えない、加えないまま進行させてしまうことがあるのだ。そしてここ一番という軍事的、政治的な盛り上がりの所では、ホルンやトランペットも登場してガラっと雰囲気を変えていくのである。この日は、ホルンもトランペットもバルブやピストンのない古楽器で、ティンパニーもモダン楽器にくらべ一回りも二回りも小柄なものだった。オケは22人。アカデミア・デッロ・スピリト・サントという名前の管弦楽団である。

指揮はフェデリーコ・マリア・サルデッリで1738年版に対するこだわりが一葉のパンフレットに短く記されていた。ここで問題なのは前述のように1738年版には第3幕が欠如していることで、再編成したとのことだが余りに短い文章なのでどう再構成したのかの詳細は不明だし、2幕3幕をあわせて75分だったので、1727年版に較べ短くなっていると思う。ややあっけなく終わる感じ(それは1727年版でもそういう面はあるのだけれど)があった。

三幕の問題をとりあえず脇に置いておくと、1幕、2幕は実に見事なもので、歌手たちもオケもその素晴らしさの実現に大いに貢献していた。タイトル・ロールはラファエレ・ぺ(カウンターテナー)。ジラーデがズボン役でフランチェスカ・ロンバルディ・マッツッリ。この人はアジリタがきく。タミーリはキアラ・ブルネッロ。メゾ。ベレニーチェはエレナ・ビスクオーラ。ポンペオはレオナルド・コルテッラッツィ。なかなかキャラクターの描き方も声も堂々としたローマ人だった。セリンダはシルヴィア・アリーチェ・ジャノッラ。長身の美貌で、役柄にふさわしい。ただし、案外この人のアリアは少ないのだ。アクィリオはマウロ・ボルジョーニでこの人も堂々とした曲にふさわしい歌いまわしが好ましく口跡が実によいのだった。

ヴィヴァルディのこのオペラは政治も恋も、恋と権力の駆け引きも熱情にも満ちていて、それを表現するアリアが旋律といいリズムといいオーケストレーションといい、実に的確に性格分けをされており、心のひだまでが描かれているようだ。大傑作と呼ぶしかない。

 

 

 

 

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2021年12月24日 (金)

バロック・オペラ研究者の見たウフィツィ美術館

ウフィツィ美術館を訪れた。

12月も下旬になって、観光客が減ってきたので、行ってみたが正解だった。朝8時に行くと、行列もできておらず数人の人とともに入館できた。

今回、数年ぶりに来てみて、やはり展示およびオーディオ・ガイドが変化したと思う。最初の部屋に巨大なジョットの聖母子像があり、二つ目の部屋にシモーネ・マルティーニの「受胎告知」があるのは前回と同じ。このシモーネ・マルティーニの受胎告知は、大天使ガブリエルの衣装や向かって左側のサン・タンサーノというシエナの守護聖人の一人の衣装が写実的に描かれているのだが、聖母の衣装は濃紺に塗り込められているし、姿勢も写実的な立場からすればやや不自然であるが、他の絵画にはない突き抜けたスピリトゥアリタを感じる。これほど、アレゴリカルな表現(たとえば大天使から発せられる言葉が金字で絵画面に描かれていること)と写実的な描写が高い次元で統合し、総体としてのインパクトを持つ絵は、ジョットのスクロヴェーニ礼拝堂くらいのものか。ともかく完成度の高さ、額縁も含め装飾性と精神性が区別できないのである。

しかし歴史的に後継者が続々現れる点ではジョットが新たな時代を切り開いたと言えるのだろう。1300年から1500年にかけてイタリアのとりわけトスカーナの絵画は写実性の度合が増していく。そしてミケランジェロ、レオナルド、ラファエッロが来て、線描的なリアリズムの頂点(レオナルドを単なる線描というのには抵抗があるが、大きなくくりでの話である)を極める。しかし何故かその後は、徐々に写実性が落ちて、首が不自然に長かったり、身体がS字だったりマニエリスムの時代が来る。アンドレア・デル・サルトなども、うーんと考え込んでしまう絵画で、漱石はなぜアンドレア・デル・サルトにわざわざ言及したのだろうか、ロンドンで観たのか、不思議である。同時代のヴェネツィア絵画もトスカーナ絵画と較べると線が粗い。15世紀後半、ブロンズィーノという例外はあるものの、総じて写実性が落ちていく。

それがジェンティレスキやカラヴァッジョとともに、光と影の大胆なコントラストを伴った劇的なリアリズムがやってくる。これが1590年代、1600年前後だ。音楽では1600年にローマでもフィレンツェでもオペラが始まる。ポリフォニアの世界からモノディの世界へ。あるいは通奏低音の発明があると言ってもよいかもしれない。カラヴァッジョの光と影のコントラストに相当するものは、音楽で言うとモノディにおける旋律と通奏低音のコントラストなのではないだろうか。ラファエッロの写実においては光があまねくあたっていた。これはポリフォニアの世界に通じる。どの声部も光が当たっている。主従ではない。モノディの世界では、歌詞を歌うのが単声になれば明らかにそれが主で通奏低音は従だ。それが光と影に相当するのではないか。しかし、そうだとすれば、なぜ1600年前後にそういう絵画上の、そして音楽上の大変化がシンクロするように生じたのか。あれかもしれない、これかもしれないと考えるが、まとまった形をなさない。カラヴァッジョの絵を見ながらこんなことを考えているのは、自分くらいのものかもしれない、と思いつつウフィッツィを出ると約4時間が経過していた。E6e3a5ee904a4b209c7f04d96518b9da

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2021年12月23日 (木)

イタリアのユダヤ人 その2

古代から中世にかけて、イタリア半島がユダヤ人にとってはもっとも居心地のよいところだったらしい(この項も前項に続き、Giampiero Carocci のStoria degli ebrei in Italia (Newton & Compton 2005)による)。

紀元70年に皇帝ティトゥスによって神殿が破壊され、134年にはハドリアヌス帝との戦いが待ち受けていた。もちろんその後の2000年の歴史の中でイタリアでも残虐行為がなかったわけではない。しかし第一次十次軍の時にライン川流域のドイツで起こったような大量殺戮はなかった。

 面白いのは、イタリア半島の中部および北部では、ユダヤ人の追放が時々行われたのだが、数年経つと、こっそりとあるいは堂々とそのユダヤ人が呼び戻されたのだ。そこが13世紀以降のイギリスやフランスと異なるし、15世紀末および16世紀のスペインやポルトガルとも異なるところだ。

イタリアでユダヤ人が永続的な形で追放されたのは、南部や島嶼部であり、そこはスペインの支配下だった。

 というわけで、イタリア中部と南部は、ユダヤ人が2000年に渡り中断の時期がなく住み続けられた唯一の地域だったのだ。そしてむしろ、フランスやドイツやスペインやポルトガルからユダヤ人が逃れてきたのである。だからヴェネツィアのユダヤ人はドイツ風やスペイン風その他の名字

を持っていた。

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2021年12月22日 (水)

イタリアのユダヤ人 その1

シナゴーグを訪れて、イタリアのユダヤ人についての関心が刺激されたので、本を読みつつ書いていくことにする。

そもそもイタリアにユダヤ人はどれくらいいるのだろうか。あるいはいたのだろうか。Giampiero Carocci 著 Storia degli ebrei in Italia (Newton &Compton, 2005) によると、1861年イタリア統一の年に、約3万9千人が現在のイタリア国内に居住していた。彼らは、しばらく前からゲットーをでて様々なところに居住するようになってきていた。そのため町によってはユダヤ人コミュニティーが減少したところもあるし増えたところもある。たとえばマントヴァやリヴォルノでは激減した。リヴォルノでは1841年には4771人いたのが、1938年には2235人と半減してしまったのだ。

 逆に増大したのは、フィレンツェ、トリノ、トリエステ、ローマ、ミラノだった。ミラノで急増した理由には、1933年にヒトラーが政権についてドイツ系ユダヤ人が逃げてきたということがあった。

 しかし他のヨーロッパ諸国と較べると、イタリアのユダヤ人の数は少ない。1931年にローマのユダヤ人は11280人であったが、ワルシャワでは35万人だったし、ベルリン、パリ、ヴィーン、ブダペストでは、15万人から20万人の間だった。桁が違う。

 1930年代にイタリア全体でユダヤ人の数は5万人に達しなかったが、ドイツには50万人以上がいた。

 1932年の時点で、外国から来たユダヤ人は5650人で、その中の有名な例がレオ・オルシュキで、1880年代にドイツから移住し、有名な出版社を作ったわけである。ロシアやポーランドで迫害されたユダヤ人はイタリアよりもアメリカ、フランス、イギリスに移住していったー経済的なチャンスが大きいと考えて。後にヒトラーが出てくることを考えると他の国よりイタリアにしておけばが良かったと後知恵で言えるが、19世紀後半の時点で考えれば、職があるかビジネスチャンスがあるかで判断するのはもっともなことだったろう。

 

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フィレンツェのシナゴーグ その3

フィレンツェのシナゴーグは、現在のものは1881年に20年間の計画・建築期間をへて建ったものである。

もっと古いものがかつてはゲットー(現在の共和国広場)に2つ、さらに古くはオルトレアルノにもあったらしい。

現シナゴーグは美術的に言えばモレスコ様式(スペインのアンダルシアなどで見るムスリムの建築様式)である。イスラム教徒の様式ではあるが、人物像が描かれておらず、植物的、幾何学的な模様で壁や天井の模様が構成される点では、ユダヤ教にとっても都合がよいのだと思われる。ガイドによると、シナゴーグは、建設される時代に流行っている建築・美術様式が採用されることが多いそうだ。

ただし、キリスト教の教会建築の影響が皆無かというとそうではなくて、このシナゴーグには、説教壇とパイプオルガンがあり、これらはカトリック教会に通常あるものが取り入れられたとのこと。

また、壁の装飾は計画時点では金箔をはった豪華なものにしたかったそうだが、建築費用がそこまでまかなえず、別の素材を用いたとのことで、実際に堂内を見ると金ぴかという感じはまったくなく、むしろ落ち着いた色合いである。

宗教的な施設で神(あるいは仏)の偉大さ、栄光などを称えるために金箔が使用されている例は数多くあるわけだが、奈良・京都の古寺を見慣れてくると、まったく剥落もなく金ぴかであるよりも、やや鄙びた感じになったものにありがたみを感じたりする感性もありうるわけだ。無論、日本でも奈良・京都の古寺・仏像も最初から古寺だったわけではなく、建造当初はピカピカだったわけで、何を尊いと感じるかの感性も、時代や地域、その文化に大きく左右されるのだろう。

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2021年12月21日 (火)

フィレンツェのシナゴーグ その2

16世紀にゲットーができる。1570年にトスカナ大公コジモ1世が、現在の共和国広場のところに作らせたのだ。これまた町の中心部にあったと言えよう。また、金融業などを営んでいて社会的に優位な立場にあった者はゲットーの外に住むことを許されたという。

 実際メディチ家の宮廷にはユダヤ教徒がいて、あのベノッツォ・ゴッツォリの描いた『東方の三博士の行列』(メディチ・リッカルド宮)の三博士の一人はメディチ家に仕えていたユダヤ教徒なのだそうだ。一方で居住区の制限や差別的な措置をしていながら、他方では彼らの富や知恵を利用していたものと思われるが、このあたりのより詳しいことは、何冊か本を読んで具体的なケースが紹介できればと思う。

 メディチも代々態度が一貫しているわけではなく、当主の考えや時代の風潮、たとえばサヴォナローラが出てきたり、対抗宗教改革の時代にはユダヤ人に対する締め付けが厳しくなる。このあたりも具体的にもう少し詳しく掘り下げたいところだ。

 メディチ家のコジモ3世(在位1670-1723)は、きわめてカトリック熱心で熱心がすぎて反ユダヤ的で、これまでユダヤ教徒に与えた特権を全部取り消し、ゲットーの外に住んでいたユダヤ人もゲットーに住まわせるためゲットーを大幅に拡張し、またキリスト教徒がユダヤ教徒のために働いてはいけないなどという布告を出した。

 ユダヤ教徒がゲットーから解放されるのは1848年、そしてイタリア王国の成立(1861年)によりゲットーが壊されることになった。

 この1860年から1880年にかけて、フィレンツェのシナゴーガの建設計画が議論され、そして実行されることになった。

 誰が資金を出したか? 

 この点で決定的だったのは David Levi という父の代にシエナからフィレンツェに移住し、イタリアの銀行業界で非常に高い地位にまで登り詰めた男の遺書だった。彼は子供がいなかったこともあり、ほぼ全財産をシナゴーガの建設に使うようにという遺書を残したのである。場所については議論百出だったのだが、結局今のところ(当時は家などまばらな所だったらしい)に落ち着いた。

 

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フィレンツェのシナゴーグ その1

759ed1294aad4ccc8c3ad6be68122e51 フィレンツェのシナゴーガ(英語風発音ではシナゴーグ、イタリア式ではシナゴーガ)を訪れた。

前に来たのがどれくらい前だったか記憶にない。2008年であったかもしれない。その時とは入場の仕方、展示方法が変わっていた。

まずは、敷地の外にカラビニエーリが物々しく銃をかまえて立っている。

入り口でも金属探知機らしい装置を通過して敷地内に入る。

ここはフィレンツェ旧市内(環状道路の内側)であり、1881年に建設されたシナゴーガだが、ここから歩いて数分のところにやはり旧市内にモスクがある。こちらのモスクは近年のもので、アパートを改装したものなので、通常の教会やここのシナゴーガのように独立した建物ではない。しかしどちらも遠い外れではなく、ドゥオーモから歩いて数分のところにあるのはフィレンツェのふところの深さか。

このシナゴーガは二階、三階がユダヤ博物館になっており、オーディオガイドやガイドの説明を聞き、あるいは展示を見て、フィレンツェのユダヤ人の歴史に俄然興味が湧いてきた。まずはそこで知ったあらましを記し、今後、イタリアおよびスペインからのユダヤ人の歴史について書籍を通じて興味深いことを知った際には、続編を記していこうと思う。スペインからのと言ったのは、15世紀末にスペインのレコンキスタが成し遂げられた後に、王権はユダヤ人およびイスラム教徒に改宗するか、追放を選択させたわけで、その際にローマに行ったユダヤ人がいたことは知っていたがフィレンツェを初めとしてトスカーナにやってきたユダヤ人もいたわけである。

 ローマにも立派なシナゴーガがあり、やはりテロを警戒して武装警官が警護していた。そして近所にユダヤ教徒の伝統的な料理を出すレストランがある点もフィレンツェと共通している。

  フィレンツェには古代ローマの時代からオルトレアルノ(アルノ川の向こう岸)にユダヤ人が住んでいたらしい。オルトレアルノにあったシナゴーガの残滓は、第二次大戦中にナチスが撤退する際に爆破されてしまった。彼らは、ポンテ・ヴェッキオを爆破しなかったが、その代わりにポンテヴェッキオに通じる街区をがれきの山にして交通を遮断したかったとのことだ。

 

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